西国第十一番
深雪山 上醍醐寺
(みゆきやま かみだいごじ)

 京都市伏見区醍醐醍醐山

 
京都地下鉄東西線「醍醐」駅下車、徒歩で東の方向に進む。途中、醍醐寺への道筋の表示が何ヶ所かある。醍醐寺境内を通り上醍醐寺まで参道を登る。地下鉄「醍醐」駅から上醍醐寺まで徒歩約1時間10分。
 上醍醐寺は西国三十三ヶ所霊場中最大の難所の一つである。滋賀県側から車で782号線(醍醐大津線)を通り横嶺峠に出て、そこから尾根伝いに歩けば楽に上醍醐寺に到達できる。

宗派:真言宗醍醐派総本山

本尊:坐像准胝観世音菩薩

開基:聖宝理源大師

 弘法大師の孫弟子、理源大師が都の東南の方に五色の雲がたなびいている山を見て、霊地とすべく登ったところ、醍醐山の神、横尾明神の化身である老人が現れた。老人はそこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな』と言ったという。これが醍醐寺の名の由来になった伝えられている。
 醍醐水を感得した理源大師は貞観16年(874年)に山頂に草庵を造り、柏の木に准胝、如意輪の両観音像を刻み安置したといわれており、これが上醍醐寺の創始とされている。
 二年後には准胝堂、如意輪堂が造られ、更に延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂が建立されたと伝えられている。

 正式には「(下)醍醐寺」と「上醍醐寺」の両寺をあわせて「醍醐寺」といい、世界文化遺産に登録されている。


 参道は(下)醍醐寺の最も奥にある「女人堂」からはじまる。かつては、女性が入れるのはここまでで、女性はここから上醍醐寺に向かって参拝したという。

 女人堂の前には手水場があり、五体の仏像が安置されている。その傍に「御千度石」と刻まれた小さな石碑が建っている。この石碑と女人堂の間を千回往復すると、山上まで上り上醍醐寺に参拝したのと同じ功徳があるといわれていた。


 

 「清滝宮拝殿」は崖の斜面を削り取った場所に建てられており、拝殿正面に向かって右側斜面上に清滝宮本殿が建てられている。拝殿正面に向かって左側は崖になっており、拝殿は懸け造り(舞台造り)になっている。

 「清滝宮拝殿」は国宝に指定されている。

 醍醐水」前の広場にある石段を上がると「准胝堂」と呼ばれている本堂前に出る。「准胝堂」には本尊の准胝観音像が安置されている。この准胝観音像は理源大師が刻んだ像であると伝えられているようであるが、一方、江戸時代の作であるとも言われている。

 本尊は秘仏とされているが、年に一回開扉されているようである。

 現存の「准胝堂」は昭和43年に再建されたものであるとされている。

 

 「薬師堂」には本尊の「薬師如来坐像」及び「両脇侍像」が祀られていたが、火災等保管上の問題から、2000年の秋に(下)醍醐寺の霊宝館に移された。「薬師如来坐像」、「両脇侍像」は理源大師が延喜7年(907年)に弟子に造らせたものといわれており、国宝に指定されている。

 
薬師堂の前を東に進と「五大堂」が建っている。
 五大堂は醍醐天皇の勅願により敵国降伏祈願のために延喜7年(907年)に創立、その後、何回かの火災に遭いその度に再建を繰り返したといわれ、現存の堂は昭和15年(1940年)に再建されたものという。

 堂前に安置されているのは理源大師像であり、堂内には重要文化財に指定されている木造五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が祀られており、自由に拝観できる。

 五大堂の東南側、醍醐山頂には上醍醐寺最大の建造物である「開山堂」と「如意輪堂」が建っている。

 「開山堂」は延喜年間、「如意輪堂」は貞観18年(876年)の創立といわれているが、何回かの火災で焼失、現存する「開山堂」は「如意輪堂」と共に慶長11年(1606年)に再建されたものという。

  
「開山堂」内陣中央には重要文化財に指定されている「木造理源大師像」が、左に弘法大師像、右には醍醐寺一世座主観賢僧正像が安置されている。

御詠歌
逆縁ももらさで救う願(がん)なれば准胝堂はたのもしきかな
1